学域長挨拶


人間社会学域は人文学類,法学類,経済学類,学校教育学類,地域創造学類,国際学類の6つの学類から構成されており、それらはいわゆる文系と呼ばれる領域です。一般的に理系の領域が未知の物質の発見や新しい化合手法の開発など、具体的なイメージで提示されることが多い一方で、文系の描かれ方は、白髪頭の老教授が難しそうな本を読んでいる姿が典型的なものでしょう。ただし、その老教授がなんのために本を読んでいるのかは、ほとんど説明されることがありません。

現代の生活の利便性のかなりの部分が、科学技術によってもたらされています。とくにインターネットが一般化した2000年代以降、私たちの生活は目に見えて変化しました。かつて買い物は店頭でするものでしたが、ネット上には無限の種類の商品があり、しかも自宅まで届けてくれます。クレジットカードやスマートフォンによる電子マネーの普及は、紙幣や硬貨を駆逐しかねない勢いです。このような流れにおいては、文字(テキスト)の分野の変化は一見地味なように見えますが、実はモノ以上に劇的です。すなわち、文字の紙からの解放です。 

ルネサンス期のグーテンベルクによる印刷術の発明は、知識の保存と共有の点で人類の文明の発展に多大な貢献をしました。しかしながら、印刷物の最大の欠点は情報の量に比例して、大きな保管場所が必要になってくることです。また、紙には面積という物理的な制限がありますから、紙幅に合わせるためにコンテンツの量を制限しなければなりません。インターネットによる仮想空間はこれらを一挙に解決しました。もはや文書の保管場所や内容量に頓着しなくてすむだけではなく、情報の検索性も画期的に向上しました。わざわざ紙をめくって調べなくても、どこになにが記述されているかが一瞬のうちに明らかになります。さらに近年登場したChatGPTなどの生成AIは、ネット上のテキストデータを使用して、文書の要約ばかりかそれに基づくアイデアまで提案します。

情報の脱特権化という点においては、こうした状況は歓迎すべきものです。しかしその一方で、これまで私たちが馴染んできた様々な境界を曖昧にしています。以前は大人と子どもとの間に入手できる情報量に歴然とした差がありましたが、検索エンジンは誰でも同じような情報を提供します。そもそも大人も子どもも同じようなスマートフォンを使っていること自体が、両者の区別の曖昧さを端的に物語っています。

他方、「私」という言葉が表すように、私たちは差異によって自分たちの固有のアイデンティティを確かめます。「私」が「私」であるのは、「あなた」や「彼ら」とは異なっているからです。個の時代と言われて久しい一方で、そうした個を切り崩す環境が私たちを取り巻いているのです。

残念ながらモノだけは私たちの個は保証されません。「我思う故に我あり」というのはデカルトの言葉ですが、境界が曖昧になっている現代にこそ、この言葉が意味があるように思われます。私たちのアイデンティティは過去の積み重ねです。先人が残した「過去」を文学、法学、経済学、政治学、心理学、人類学などの様々な観点から再検証することによって、今の私たちと社会との関係、さらには未来との関係を模索・提示するのが文系の学問の役割です。冒頭の老教授は単に本を読んでいるのではなく、その目は未来を向いているのです。

人間社会学域での学修では、発達していく科学技術と私たちとのより良い在り方をそれぞれの専門領域から考察します。各領域は、学類制度によって互いに開かれており、様々な意見を持った人との交流が可能になっています。そうした環境の中で、一人ではなく、仲間と共に主体的に学び考え、そこで培った能力を社会の中で発揮する人材を養成します。

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